よく死ぬために生きてる

特にメインテーマは決まっていません。AC・愛着障害っぽさに依るつらいことを吐き出すだけの日もあるでしょうし、世界に対する疑問やワクワクを書くこともあるでしょうし、お下品なことを書くこともあるでしょう。

人間社交の何がつらいか

 僕は基本的に社交を回避する傾向がある。僕はなぜ社交を回避してしまうのだろうか。この答えはシンプルだ。社交がつらいからだろう。
 人はつらいと思うものを回避するものだ。

 ではどういったときにつらいのだろうか。そういった状況の例を列挙し、そのエッセンスを抽出してみたい。

 

 ずいぶん長くなってしまったので抽出した結果を先に書いておくと「社交は、大多数の健常者と経験・知識・常識・感性などが乖離していることが露呈する/“自分が試される”話題・状況が沢山ある地雷原」という認識があり、その地雷原を歩かされるのがしんどくて怖いのだと思う。

 なぜなら、多数派の人間は、そういった人間を蔑視するし、人間は蔑視した対象には、積極的にせよ消極的にせよ迫害する/見放す可能性が高く感じており(ここに認知の歪みがありそうなことは頭では分かっているが、恐れを取り除けない)、それを恐れているからだ。
 社交をしていると、様々な状況・話題で自分が迫害されうる/見放されうる要素が露呈していくのが怖いのだ。

 

  なぜ僕がこのように、すぐに人に異常者だと思われ嫌われる、と思ってしまうのかは、明確に心当たりがある(母だ)。長年の言動の何がそれに影響を与えていそうかはまた別途吐き出そう。

 

 最後に、先にあげようと思っていた、社交をすると飛び出してくるつらい話題・状況を書いておいて終わりにする。とても息苦しい発想を書いているが、この思考はつらいからこそ他者にそれを求めている訳ではない(と思う)。

 

 

プレゼント・お返し

 結婚、出産、誕生日・交際相手との記念日・クリスマス、何かしてもらったお返しなどをする機会が人付き合いが存在すると発生する。適切な行動がわからず、何をもって「冷たい」などと思われてしまうかがわからない地雷原である。

 

友人の結婚・出産

 結婚式にでるならご祝儀は渡すものであるはず。では結婚式の二次会の場合は? 「結婚パーティ」の場合は?(そもそも「結婚パーティ」とは何か、披露宴や二次会とは違うのか?)
 それらに出なった場合も渡すものなのか? ご祝儀袋の装い? 入れるお金の額? 渡す手段・状況?

 仲にもよるだろう。こちらがご祝儀を出すほどの仲ではないと思っていても、相手の「仲」の基準からしたらむしろ出さないのが変に感じるかもしれない。すると人に愚痴られたり、関係が変わったりするかもしれない。

 

誕生日プレゼント、クリスマスプレゼント

 まず額の問題がある。どのくらいの金額が適切なのかわからない。ぼんやりした基準があり、そこから安すぎても高すぎても関係性が悪化する。
 そしてプレゼントするものの内容選びが非常に難しい。本当に欲しいものだったら大体自分で購入するだろうし、購入していなくても他の人からのプレゼントでもらうかもしれない。
 これは相手にプレゼントする場合も、自分にプレゼントしてもらう場合どちらも難しすぎる。

 もらったものが「自分にとって微妙なもの」でも、良い振る舞いをしないと失礼なのは解る。でも、僕は相手に申し訳無さを感じさせないように自然に喜ぶような振る舞いはできないと思う。嘘をつこうとすると僕は声が小さくなったり、挙動不審になってしまい絶対に不自然になる。

 

恋人との記念日

 交際を始めると、どれくらいの単位で記念日的扱いをすべきなのだろう、そしてその内容は、というのが「試される」地雷原に感じられる。

 1年周期の分は僕も納得できる基準だが、1年未満のときが全くわからない。1ヶ月、3ヶ月、半年だと、まるでそこまで持たない思っていたかのようではないだろうか?
 でもそれをすることが本当に愛情があるかどうかという試金石にしている子もいることだろう。

 

お返し

 人に何かをしてもらうと、その相手へお返しすることになる。これもまたつらい。
 返報性は僕にもあるのでそれ自体に文句があるわけではなく、「人間性が試される」地雷原に入ってしまうことがとても心労なのである。

 そのまま返せばいいようなものならそこまで悩みがないからまだいい(同じものを返すなら、そもそも別にやりとりしなくても良くないか? とは強く思う)。
 同じものを返す訳ではない「プレゼント返し」がかなりつらい。プレゼントしたものが相手にとって、以前自分にプレゼントしたものと釣り合うかどうか、相手の感性に委ねられる。釣り合っていなければ内心相手は自分との関係を見直すかもしれないし、他の人に愚痴られるかもしれない。

 

 

有名人の話題

 まず有名人の話が出てくるとつらい。雑談では「(共通の知人の/自分は/あなたは)有名人の誰に似ている」だの「ある有名人がなにかやらかした(発言/不倫など)したらしいね」などの話題が急に飛び出してくる。

 僕は基本的に他者への関心が薄い――本当にそうなのか、単に自我の生存で精一杯で外に関心を向ける余裕がないだけなのかは、自己肯定感のなさを解消するまではわからないけれど。とにかく現状は、親しい友人・自分の興味が強い分野で高いパフォーマンスを誇っているような人間・学びが多く得られそうな人間の言動にしか興味がわかない。
 なので、有名人を、有名人だからという理由では知ることができない。名前を覚えられない。今年前半くらいまでずっと実家で暮らしていたが、居間で流されていたテレビを食事の間だけ視界に入ることはあり、顔は見たことがある有名人はそこそこいる。が、彼らの名前には興味がないので、顔と名前の結びつけができていない。

 結果、有名人の誰に似ているよね、とか言われても名前から顔面が連想できないのでまったくわからない。

 「あ~……確かに(引きつった笑み)」と合わせてもすぐ知らずに合わせていることはバレてしまうし、かといって「どんな顔かわからない」といっても話がそこで終わってしまい「何こいつ」となるだろう。詰んでいる。

  

 

スポーツの話題

 スポーツといっても、普段から行われている試合を大体みているほどのスポーツ好きはそこまでいないと思っている。しかし、ワールドカップやオリンピックといった世界的イベントになると、多数の人々は途端に観戦を示す。

 ルールなどがよく分かっていなくても、何故か試合観戦をすることができ、なぜか選手の顔面と名前をセットで覚えることができるのである。そして、それを見ることが当たり前であるかのように、世間話に出してくる。

 しかし、僕はそういった期間も、自分が興味の湧くものに普段通り時間を費やすので、その試合はみていない。名前から選手の顔面はでてこないし、試合の見所のシーンもしらない。

 社交相手が観戦中のある瞬間の興奮に共感してあげることもできない。途端に相手は「コイツつまんね」と思っていることであろう。

 

 

恋愛関係の話題

 男女交際をしたことがない人間が増えているデータがあるらしい。しかし、僕の体感としては、僕がメインに属しているオタク的趣味のコミュニティは、人間が偏っているのでともかく、これまで学校・会社で普通に知り合う人々においてはそういう人はほとんどいない。

 皆さん健常に学生時代までには遅かれ早かれ交際しセックスもした方々ばかりだという印象がとても強い。交際もセックスも、彼らにとって、交際やセックスは、そこまで特別感はない世間話になりうる程度の概念の1つであると思っている(セックスを話題に出すことはないにせよ)。

 だから、恋愛状態について、世間話において話題にされることがある。「彼女いるの?」「どれくらいいないの?」など。

 僕は今年27歳になったが、ずっと男女交際には縁がなく、今年初めてできた交際も半年もただずに、しかもセックスすることもできずに終わってしまった。

 会社の飲み会でそういった世間話を「彼女居たことがない」ことがバレると大きな声で「ええ~!?(信じられないものを見る目)」という反応した上司、暫くしてなんとか彼女ができても「仲はどうなの」という話になり、4ヶ月くらいたってもまだセックスできていないことがバレ、また別の人から「え~!?」と反応される。

 生殖は人間以前の生物としての前提となる活動であり、それができない人間は、露骨に出さないにしても内心、異常者扱いだろう。

 運良く、彼女いない歴=年齢を脱することは出来た。
 しかしそれもセックスできずに別れたとなると、「20代後半で初めて彼女ができた上に、彼女いない歴≠年齢なのに、セックスもできず別れてしまった童貞」という、単なる「彼女いない歴=年齢の童貞」よりも更に奇異な目で見られうる存在になってしまった。

 よって、恋愛話も、しているとそのうちこれが露呈してしまうのでおいそれとできない。