よく死ぬために生きてる

特にメインテーマは決まっていません。AC・愛着障害っぽさに依るつらいことを吐き出すだけの日もあるでしょうし、世界に対する疑問やワクワクを書くこともあるでしょうし、お下品なことを書くこともあるでしょう。

「天が落っこちる心配をするようなこと」をなぜしてしまうか

 僕は対人関係において、相手に嫌われることを過度に恐れている。僕は価値観や感性が多数派の人々とは異なる(また、その僕自身の価値観に肯定感を持っているわけではない)点が多いことも自覚している。
 この二つにより「一般から外れている価値観を知られると、それをきっかけに嫌われてしまい、もしかすると迫害されるようになるかもしれない」という飛躍した恐れを抱えている(迫害と書いたが、嫌がらせされたり、影で言いふらされて気付かない内に敵を増やされるようなイメージだ)。

 この状況は価値観が違うことがバレることによって生じるので、その状況の発生確率を下げるには「なるべく不必要な関わりをしない」ことだからだろう、僕は余程仲の良い人間以外との個人的な関わり――会社の同僚なら雑談や業務時間外の食事など――はなるべく回避しようとしてしまう。

 「相手と違う価値観を知られて、疎遠になったり嫌われたりし得る」ことは、突飛なことではないだろう。でも、それが「迫害に繋がりそうだ」というのは、心配しすぎだ。客観的にはそうだと分かっている。
 でも何となく心配し過ぎを止められず、いつまで経ってもなるべく人間関係を回避しようとし続けてしまう。僕はなぜ心配しすぎてしまうのかがよく分からなかった。

 しかし、アニメ「魔法使いの嫁」第12話で、主人公・チセとネヴィンが交わす会話の中で出てきた言い回しでハッと気づきがあった。一応文字にしてアウトプットして、客観視できるようにしておこうと思って、この記事を書いておこうと思った。

 

「君のエリアスは、 突然に君を放り出すなんてことをする人なのかい? そんなことを言ったりしたのかい? チセが恐れることが一度だって起こったことが?」

「……ない」

「なら、天が落っこちる心配をするようなことは、やめなさい」

 多分、この会話の大事な所はこの引用箇所より後であるが、「天が落っこちる心配」という言い回しは、僕をハッとさせるものだった(ただ、初めて耳にした表現である感じではなく調べたら故事成語「杞憂」でも出てきた、別に目新しい言い回しだったわけではなかった)。

 天が落ちてくるなんてことがあったら、確実に大変なことが起きて苦しい思いをし死んだりするかもしれない。とはいえ、天が落ちるなんてことは、実際には起こらないのだ。恐ろしいことだが、それは前提として起こらないことなのだ。だから、憂うだけ無駄、つまり杞憂なのである。
 では何故僕は「起こったら深刻だが、そもそも普通起こらない」ようなことを心配してしまうのだろうか。

 「魔法使いの嫁」に戻るが、チセは親に捨てられた過去がある。詳細は明らかにされていないが、母親に「産まなきゃ良かった」と言われたり、首を締められて殺害されそうになった(最終的には殺害するのを止め、母親は自殺したらしい)過去があるようだ。
 しかし、この引用したシーンの後の方では、チセは両親と仲睦まじく愛されていたような過去があったことがわかる夢を見ている。

 仲睦まじい幸せな家庭で愛されて育っていたチセにとって、どんな理由があったとしても、母親にそのようなことをされるのは「天が落ちる」ような出来事だったのではないだろうかと僕は思った。その時まで、母親に自分の存在を否定されたり生命を脅かされることは、まずあり得ない、そもそも発想すらできないことだっただろう。しかし「天が落ちる」ような、自分の存在を脅かされる経験をしてしまった。
 だから、「自分は相手に飽きられたら直ぐに捨てられる、エリアスもきっとそうだ」という信念にとらわれて、それが「あり得る」ことなので、そうなるのを恐れて訊きたいことも訊けない性格になったのだと思う。

 僕は、客観的に見れば、チセほどの仕打ちをされたわけではない(年齢も覚えていないほど恐らく幼いとき、母の言うことを余りに聴かなかった際、1度車に詰められて山の近くまで連行されて「言うことを訊かないとこのまま車から下ろして捨てる」と脅された)。
 今思えば、母は本当に捨てる気はなかったのだろうとは思う。でも、当時の幼かった僕にとって本物の「自分の存在が脅かされる」恐怖を抱いただろう。このとき、僕は「言うことに従っていないと捨てられてしまう程に僕には価値がない」という信念と「このまま捨てられて死んでしまう」という死の恐怖を抱いたのだと思う。この経験が、当時の僕がそれまで生きてきた中で思いつきもしたことがないほどあり得ない「天が落ちる」ような体験だったのではないだろうか。

 チセも僕も、幼い頃に「天が落ちる」ことに匹敵する自己存在否定を経験してしまったから、大きくなっても「天が落っこちる心配をするようなこと」をし続けてしまうのだろう。

 僕は労働や金銭についても、いつか何かしら大変なことになって抜け出せなくなって死ぬのでは、という漠然とした不安がずっとあるのだが、これも「天が落ちる心配をする」ようなことだなぁと思うし、こういう心配をしてしまうのも、昔、当時の自分が本当に死の恐怖を感じる経験をしたからなのではないか、と思った。

 

 ……という考察が、12話のチセとネヴィンとの会話とチセの過去が結びついた結果生まれ、頭の中をぐるぐるしていたので、一旦記事に吐き出すことにした。

 チセや僕のような、幼い頃に「自身の存在を脅かされる」経験をしてしまった人間は、どうすれば「天が落っこちる心配をするようなこと」を止められるのだろうか。ここが僕の今後の人生の肝要であり、難所である。

 結局、自分が深く心を許せる相手ができて、その相手が安全基地となって自分を脅かすようなことをしない、という経験を継続的にするしかないのだろうか。ただ、そのような相手を得られる人は大抵、天が落ちる心配をするようなことをそもそもしない人なのではないように思える。服を買いに行く服がないみたいな話である。僕はどうしたらいいのだろう。

人間社交の何がつらいか

 僕は基本的に社交を回避する傾向がある。僕はなぜ社交を回避してしまうのだろうか。この答えはシンプルだ。社交がつらいからだろう。
 人はつらいと思うものを回避するものだ。

 ではどういったときにつらいのだろうか。そういった状況の例を列挙し、そのエッセンスを抽出してみたい。

 

 ずいぶん長くなってしまったので抽出した結果を先に書いておくと「社交は、大多数の健常者と経験・知識・常識・感性などが乖離していることが露呈する/“自分が試される”話題・状況が沢山ある地雷原」という認識があり、その地雷原を歩かされるのがしんどくて怖いのだと思う。

 なぜなら、多数派の人間は、そういった人間を蔑視するし、人間は蔑視した対象には、積極的にせよ消極的にせよ迫害する/見放す可能性が高く感じており(ここに認知の歪みがありそうなことは頭では分かっているが、恐れを取り除けない)、それを恐れているからだ。
 社交をしていると、様々な状況・話題で自分が迫害されうる/見放されうる要素が露呈していくのが怖いのだ。

 

  なぜ僕がこのように、すぐに人に異常者だと思われ嫌われる、と思ってしまうのかは、明確に心当たりがある(母だ)。長年の言動の何がそれに影響を与えていそうかはまた別途吐き出そう。

 

 最後に、先にあげようと思っていた、社交をすると飛び出してくるつらい話題・状況を書いておいて終わりにする。とても息苦しい発想を書いているが、この思考はつらいからこそ他者にそれを求めている訳ではない(と思う)。

 

 

プレゼント・お返し

 結婚、出産、誕生日・交際相手との記念日・クリスマス、何かしてもらったお返しなどをする機会が人付き合いが存在すると発生する。適切な行動がわからず、何をもって「冷たい」などと思われてしまうかがわからない地雷原である。

 

友人の結婚・出産

 結婚式にでるならご祝儀は渡すものであるはず。では結婚式の二次会の場合は? 「結婚パーティ」の場合は?(そもそも「結婚パーティ」とは何か、披露宴や二次会とは違うのか?)
 それらに出なった場合も渡すものなのか? ご祝儀袋の装い? 入れるお金の額? 渡す手段・状況?

 仲にもよるだろう。こちらがご祝儀を出すほどの仲ではないと思っていても、相手の「仲」の基準からしたらむしろ出さないのが変に感じるかもしれない。すると人に愚痴られたり、関係が変わったりするかもしれない。

 

誕生日プレゼント、クリスマスプレゼント

 まず額の問題がある。どのくらいの金額が適切なのかわからない。ぼんやりした基準があり、そこから安すぎても高すぎても関係性が悪化する。
 そしてプレゼントするものの内容選びが非常に難しい。本当に欲しいものだったら大体自分で購入するだろうし、購入していなくても他の人からのプレゼントでもらうかもしれない。
 これは相手にプレゼントする場合も、自分にプレゼントしてもらう場合どちらも難しすぎる。

 もらったものが「自分にとって微妙なもの」でも、良い振る舞いをしないと失礼なのは解る。でも、僕は相手に申し訳無さを感じさせないように自然に喜ぶような振る舞いはできないと思う。嘘をつこうとすると僕は声が小さくなったり、挙動不審になってしまい絶対に不自然になる。

 

恋人との記念日

 交際を始めると、どれくらいの単位で記念日的扱いをすべきなのだろう、そしてその内容は、というのが「試される」地雷原に感じられる。

 1年周期の分は僕も納得できる基準だが、1年未満のときが全くわからない。1ヶ月、3ヶ月、半年だと、まるでそこまで持たない思っていたかのようではないだろうか?
 でもそれをすることが本当に愛情があるかどうかという試金石にしている子もいることだろう。

 

お返し

 人に何かをしてもらうと、その相手へお返しすることになる。これもまたつらい。
 返報性は僕にもあるのでそれ自体に文句があるわけではなく、「人間性が試される」地雷原に入ってしまうことがとても心労なのである。

 そのまま返せばいいようなものならそこまで悩みがないからまだいい(同じものを返すなら、そもそも別にやりとりしなくても良くないか? とは強く思う)。
 同じものを返す訳ではない「プレゼント返し」がかなりつらい。プレゼントしたものが相手にとって、以前自分にプレゼントしたものと釣り合うかどうか、相手の感性に委ねられる。釣り合っていなければ内心相手は自分との関係を見直すかもしれないし、他の人に愚痴られるかもしれない。

 

 

有名人の話題

 まず有名人の話が出てくるとつらい。雑談では「(共通の知人の/自分は/あなたは)有名人の誰に似ている」だの「ある有名人がなにかやらかした(発言/不倫など)したらしいね」などの話題が急に飛び出してくる。

 僕は基本的に他者への関心が薄い――本当にそうなのか、単に自我の生存で精一杯で外に関心を向ける余裕がないだけなのかは、自己肯定感のなさを解消するまではわからないけれど。とにかく現状は、親しい友人・自分の興味が強い分野で高いパフォーマンスを誇っているような人間・学びが多く得られそうな人間の言動にしか興味がわかない。
 なので、有名人を、有名人だからという理由では知ることができない。名前を覚えられない。今年前半くらいまでずっと実家で暮らしていたが、居間で流されていたテレビを食事の間だけ視界に入ることはあり、顔は見たことがある有名人はそこそこいる。が、彼らの名前には興味がないので、顔と名前の結びつけができていない。

 結果、有名人の誰に似ているよね、とか言われても名前から顔面が連想できないのでまったくわからない。

 「あ~……確かに(引きつった笑み)」と合わせてもすぐ知らずに合わせていることはバレてしまうし、かといって「どんな顔かわからない」といっても話がそこで終わってしまい「何こいつ」となるだろう。詰んでいる。

  

 

スポーツの話題

 スポーツといっても、普段から行われている試合を大体みているほどのスポーツ好きはそこまでいないと思っている。しかし、ワールドカップやオリンピックといった世界的イベントになると、多数の人々は途端に観戦を示す。

 ルールなどがよく分かっていなくても、何故か試合観戦をすることができ、なぜか選手の顔面と名前をセットで覚えることができるのである。そして、それを見ることが当たり前であるかのように、世間話に出してくる。

 しかし、僕はそういった期間も、自分が興味の湧くものに普段通り時間を費やすので、その試合はみていない。名前から選手の顔面はでてこないし、試合の見所のシーンもしらない。

 社交相手が観戦中のある瞬間の興奮に共感してあげることもできない。途端に相手は「コイツつまんね」と思っていることであろう。

 

 

恋愛関係の話題

 男女交際をしたことがない人間が増えているデータがあるらしい。しかし、僕の体感としては、僕がメインに属しているオタク的趣味のコミュニティは、人間が偏っているのでともかく、これまで学校・会社で普通に知り合う人々においてはそういう人はほとんどいない。

 皆さん健常に学生時代までには遅かれ早かれ交際しセックスもした方々ばかりだという印象がとても強い。交際もセックスも、彼らにとって、交際やセックスは、そこまで特別感はない世間話になりうる程度の概念の1つであると思っている(セックスを話題に出すことはないにせよ)。

 だから、恋愛状態について、世間話において話題にされることがある。「彼女いるの?」「どれくらいいないの?」など。

 僕は今年27歳になったが、ずっと男女交際には縁がなく、今年初めてできた交際も半年もただずに、しかもセックスすることもできずに終わってしまった。

 会社の飲み会でそういった世間話を「彼女居たことがない」ことがバレると大きな声で「ええ~!?(信じられないものを見る目)」という反応した上司、暫くしてなんとか彼女ができても「仲はどうなの」という話になり、4ヶ月くらいたってもまだセックスできていないことがバレ、また別の人から「え~!?」と反応される。

 生殖は人間以前の生物としての前提となる活動であり、それができない人間は、露骨に出さないにしても内心、異常者扱いだろう。

 運良く、彼女いない歴=年齢を脱することは出来た。
 しかしそれもセックスできずに別れたとなると、「20代後半で初めて彼女ができた上に、彼女いない歴≠年齢なのに、セックスもできず別れてしまった童貞」という、単なる「彼女いない歴=年齢の童貞」よりも更に奇異な目で見られうる存在になってしまった。

 よって、恋愛話も、しているとそのうちこれが露呈してしまうのでおいそれとできない。